2015年7月19日日曜日

至福のひと時をもらった「寺ヨガ」



「寺ヨガ」

下関や福岡で活動されている
インストラクター Kanaさんという方が主催されている
ヨガ三昧イベント。

まだ、空きがあるようだったので
教えてくださった方経由で申し込みました。

そこで受けた、アシュタンガ・ヨガ。

呼吸に合わせてスタンディングでポーズを流していきます。
ヴィンヤサを彷彿とさせて(呼吸ペースが速いですが)。
なつかし~という感じでした。

終わって、質問をということで
私は質問したんです。えへ。

アシュタンガには、習得度によって
6つの段階があり、
一つの段階を習得するのに3年くらいかかるそうなんですね。

その時の先生のレベルでも
「すごいな~」って感じなのに
その先生のレベルで
できないことができるようになるって
どんな感じなんだろう 、と思ったんです。

なんかすぐできるようになりそうな気がしません?

「最初はできなかったことができるようになる過程は
 みな同じなんです。

 生徒さんが初級の練習中に経験し感じることと、
 私が練習中に経験し感じることは同じなんです。

 段階が一つ上がれば、その段階において
すべての感情を経験するわけです。

 そういう意味では 取り組んでいることに対して
 (先生・生徒といったような)上下はないんです。」


静かな衝撃でした。


何か一つのことに取り組む中で経験する
好奇心、探求心、充足感、達成感、歓喜、
戸惑い、停滞感、焦燥感、挫折、逃避、
優越感、劣等感、嫉妬、切望、怒り、哀しみ・・・。


「何に取り組むか」は人それぞれ
「どう感じるか、何を経験するか」は同じ。

いくつになっても。
キャリアを積んでも。

内側の感情と向き合うこと
そこに、進度の差はないんですね。

教える側に回ると
必ず通る道が、いくつかあります。

その一つが
「あなたはまだこの程度なの?」
という、上から目線意識。

特に精神世界系の学びで
何か知識を得ると
とたんに
周りの人たちが「愚か」に見えてしまうんですね。

この意識に乗っ取られたとたんに
落ちていきます。
ものすごいスピードで落ちていきます。
はい、私、よくなります。

 しかし、
この「愚か」に見える他人の姿も
実は、「自分がさげすんでいる自分自身」
だったりするわけです。

そんな相手の「愚かさ」を許す
  =自分の中の「愚かさ」を許す

時にそんな部分があっていいんだよ、と。

幾度となく、
そんな意識のアップダウンを
経験しながら
相手に映る自分の中の
「愚かさ」を許していく。

これは一度や二度じゃ終わらないですよ。

許すたびに
「ダウン」の幅が浅くなっていく。
そんな感じでしょうか。




つい誰かを見ようとするその視線を
内側の感情体験に
向けたとき、
すべての人は同志で
すべての人は師なんだと
この時の寺ヨガで
教えてもらったような気がします。





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